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大和町松梅の干し柿
~その歴史約300年・温冷の差が生む佐賀の干し柿~
晩秋に佐賀市大和町の松梅地区を訪ねると、オレンジ色のカーテンがあちらこちらで見られる。この辺りは、干し柿の産地として有名で、先祖から譲り受けた土地を守っている。

干し柿名人 上野さんに聞く

 松梅地区で、専業で干し柿をつくっているのは、上野さんただ一人。上野さんは、生まれも育ちも松梅。農家の子どもとして生まれ、代々家の山や田んぼを守ってきた。


干し柿農家 上野耕太郎さん

撮影:北村和秀氏

「松目地区の田んぼは4反ほどしかありません。米も少量しかとれない中でも、藩に年貢として納めないといけないという状況の中、干し柿の生産は、家の存続のため、食べていくために、この地区では干し柿づくりが行われてきたのです」と上野さん。現在、松梅地区には約40戸の干し柿農家があり、佐賀県のみならず、九州一円、関東地方へ干し柿が出荷されている。


干し柿の歴史


 干し柿そのものは、奈良時代から続く松梅の干し柿は、松梅地区の耕作面積は約4haと決して広くはない面積で、家族が生きていくために、冬の家業として干し柿づくりが行われてきた。松梅地区での干し柿づくりは、歴史書によると、五代藩主宗成に献上したと記されているので、およそ300年の歴史があると考えることができる。松梅地区で300年以上も続いてきたのは、豊かな山林と脊振と天山山系の山々に挟まれ、昼夜の温度差がある自然条件が干し柿づくりに適していたという。干し柿に使う渋柿は、干すことによって渋み成分のタンニンが不溶性に変化し、渋みを感じなくなり、濃厚な甘みが際立つようになる。


柿をとるための棒

ひもで吊るすために柿のへたを切る

 干し柿の作業は、干し柿を吊るすために枝切りし、皮をむいて、ぶら下げる作業の繰り返し。カビが大敵なので、防止のためのアルコール塗布も欠かせない。一日、一日と日を重ねるごとに、柿の水分量が変化していく。松梅地区の干し柿は、軟らかいあんぽ柿を出荷する。あんぽ柿は水分が40~45%くらいの時。水分量は、長年の経験がものをいう。気温が15度以下に下がり、湿度が柿の収穫から干し柿の出荷まで、おおよそ1か月から1か月半は、目が回るほどの忙しさという。

干し柿づくりの難しさ

 柿の皮をむき、乾燥させるために干す。これだけで干し柿ができると思ったら大間違い。乾燥させる過程が一番神経を要する場面だと上野さんは「何十年も干し柿をつくっていますが、今でも干し柿は難しいですよ」と言う。大敵となるのはカビ。乾燥させる前に、柿を湯につけて1分間くらい殺菌をする。干している間は、発生を抑えるために天候や湿度を見ながら、カビがきそうな時は、食用アルコールで殺菌をする。干し柿づくりのシーズンは、不休状態で、柿の品質を管理しているのである。こうして、この地区だけで約200万個の干し柿が完成しているのだ。


乾燥はハウスの中で行う。管理に神経を使う。

親から子へ、子から孫へと伝わる伝統

 上野さんの少年時代は、子ども全員が上手に柿の皮むきができ、家業の手伝いで大量の皮むきをしていたと当時を振り返る。松梅地区では、校区全体で干し柿づくりを伝える柿の皮むきイベントが現在も行われている。校歌の歌詞にも柿のことが描かれており、校歌の他にも、松梅小学校に着任した教師がつくった「干し柿の歌」という曲も、松梅出身の40代以下の卒業生は全員歌えるという。

 寒い中の厳しい作業がつきものの干し柿づくりは、松梅の伝統として残していくべきものだという思いから、上野さんは、仕事のかたわら、松梅に着任した教師に干し柿の歴史のことをレクチャーしたり、子供たちの野外学習の講師として地域の語り部となっている。松梅の干し柿が佐賀の文化遺産として残っていくベースは、松梅に生まれ育った人たちによってしっかりと整えられているのだ。


★干し柿の歌★


撮影:北村和秀氏

はー、ここは松梅、干し柿どころ
どこを向いても、よっこらしょのしょ。
干し柿のれん
つ秋は小金のはなとなる
一家そろって柿の木すれば、
柿はぐるぐる
話も弾む
ツンツンツルツル吊るし柿