佐賀ならではの時間や空間の楽しみ方など、通りいっぺんの観光では味わえない濃い深い情報満載です! PR隊長のはなわさんや優木まおみさんがディープな佐賀へと誘います。
佐賀市プロモーション大使の宇都宮直高さんは、東京藝術大学の学生時代にすでに劇団四季の劇団員として、舞台に立ったという輝かしい経歴の持ち主です。さぞや幼少の頃から音楽家になるための英才教育を受けてこられたのだろうと思いますが、はたして実際はいかに…?
宇都宮さんが高校3年生までを過ごしたふるさと佐賀で、いかにして歌が好きになったか、音楽の道を志したのか、その背景について今回はお話をお伺いします。
――そもそも、宇都宮さんが音楽に興味をもたれたのは、中学生のときの合唱部なんですね?
そうです。歌には本当にのめりこみました。そのときの情熱が僕を劇団四季の舞台に立たせ、いまもこうしてテノール歌手、舞台俳優として生かしているわけで……。
――もっとお小さい頃は、アメリカにいらしたそうですが、そちらで音楽の英才教育を受けられたんですか?
とんでもない! 僕の母は日本ではピアノ教室をしていまして、僕が小学1年の終わりくらいからアメリカに渡りました。でも、僕がピアノを習う……なんてことはまったくなくて(笑)。どちらかというと、「ピアノなんて」という気持ちが強かった。
小さい頃から家に母の生徒さんたちがピアノを習いにくるでしょう? そうすると、僕らはレッスンの間、おとなしくしていなければならないわけです。「あっちいってらっしゃい」なんて言われるし、なんだかピアノに母を取られているみたいで、子供心にやきもちを妬(や)いていたのかもしれません。
――ということは、ピアノは嫌いでも、歌はお好きだったんですね?
その通りです。うちは兄妹が5人いてみんな歌が大好きなんですね。当時はやったCMソングや童謡などを5人でよく歌っていました。「雨、が降れば~、が降れば~♪」というふうに、輪唱もやっていましたよ。まさにあのマイケル・ジャクソン兄弟のジャクソン5(ファイブ)みたいに(笑)
アメリカに行ったときはまだ小さかったので、ABCのアルファベットと、アメリカではウツノミヤ・ナオタカを、ナオタカ・ウツノミヤって苗字(みょうじ)と名前を逆にするんだということぐらいしか知らなかった。
それがいきなりネイティブの子どもたちが通う小学校に入れらましてねえ。当たり前ですえが、言葉も何もわからないんですよ。とりあえず、自己紹介しなくちゃいけなくなって、「ど、どうしよう……」と窮地(きゅうち)に立って、頭にひらめいたのが、「そうだ、歌えばいいんだ!」ということでした。そこで腹を決めて、「♪ショ、ショ、ショージョージ、ショージョージの庭は…」と『証城寺の狸囃子(しょうじょうじのたぬきばやし)』歌ったら、これが「ワーオ」と拍手喝采(はくしゅかっさい)で、みな喜んでくれたんですよ。
――すごいですねえ、とっさの機転で。
よく言われることですが、「歌は国境を超えるんだ」と子どもながら感じた出来事でした。歌がきっかけでスムーズにクラスに溶け込めて、一週間ぐらい経つと、友達の家に遊びに行ってましたよ。
――歌が、立派なコミュニケーションツールになったんですね。
そうです。大好きな歌で友達もできたし、学校の合唱団に入って練習にも参加しました。この合唱団では年に2度はステージで歌いました。入団した時点では、まだ英語はわかりませんから、とにかく何か言われて「イエース」と答えたのがきっかけで……(笑)。でも、好きなことができて楽しかったです。
――その後、佐賀にお帰りになって、佐賀市内の鍋島中学校に入学なさいます。
日本に戻ってきて、鍋島中学校に入学して、「さて、どうしたら歌が歌えるだろうか」と歌える場所を探していたところ、ラッキーなことに、鍋島中学校に合唱部があった。しかし、女声合唱部しかないと知って、それでもあきらめがつかず、毎日、女の子たちの合唱部のお稽古を、部屋の隅で見ていました。
そうしたら、顧問の樋口先生から、ピアノ伴奏者の譜めくりの仕事を下さって、毎日、譜めくりをしました。「でも、このままじゃあ、いつまでたっても歌えないぞ」と思って、先生に頼み込んだんです。「ボクも歌わせてほしい」と。
樋口先生は「うーん、私、混声合唱は嫌いなのよね~」と乗り気ではなかったんですが、そこは粘りに粘って。「混声をやるからには全国大会を目指したいんだけど」と樋口先生が言われたので、「も、もちろんです。死ぬ気でやりますっ!」と返事して、声のいい男子を5人集めて、混声合唱部がスタートしました。
――ハハハ、男の子たちがシンクロナイズドスイミングする『ウォーターボーイズ』みたいです。
あの年頃って、すごいパワーが出せるものなんです(笑)。中学2年の時、佐賀市文化会館のホールで、初めて歌を披露した日のことは、今でも忘れられません。本番の日を迎えるまでにとにかく死ぬ気で練習して、樋口先生の特訓に喰(く)らいついて行きました。先生の指導にも熱が入り、指揮のタクトが折れることもしばしばでした。タクトが使い物にならなくなると、次は、菜箸(さいばし)……。
――え? あのお料理に使う長いお箸ですか?
そうです。菜箸を指揮棒代わりにして、しまいには、それが折れることもありました。全国大会を目指すには相当な努力が必要ですから、先生のほうも、「この子たちを全国大会に連れて行く」というプレッシャーや意気込みが指揮棒に乗り移ったんでしょう。その気迫がこちらに伝わってきて、みなでハーモニーを合わせるために心を研ぎ澄ませて、先生のタクトに合わせて、第一声を上げる時の集中力と緊張感がないまぜになったあの独特な感覚は、いまでも思い出します。
――その甲斐(かい)あって、中学3年生の時に全国大会の切符をつかみました……。
ええ、そのとき歌った曲はハンガリーの曲でした。この曲は、専門用語でいうと、不協和音から〝解決して……つまり、安定した音になって終わるのですが、レベルの高い表現力が中学生の僕らにも求められていました。
僕のパートの第一声は出しにくい「ンー」でしたから。条件の厳しい中で、この表現力の壁を乗り越えるのは本当に大変でした。
ハーモニーを大切にする練習のひとつとして、山でもよく練習しましたよ。樋口先生は率先して外に連れ出してくれまして、「ほら、野生の動物だって声を出しているのよ。小鳥が鳴いているでしょう? ハイ、どうぞ!」と、僕らに歌うよううながす。
鳥がライバルですからねえ……(笑)。そうやって自然の中で神経を研ぎ澄まし、静寂の中から音を見つけだして表現することを、先生は教えてくれました。これは僕が後年、プロになり、劇団四季の『ライオンキング』で主役のシンバをつとめさせて頂いたときにも、すごく役に立ちました。
――熱心に指導する先生とそれにこたえる生徒たち……聞いているこちらも豊かな気持ちになります。
歌だけじゃないんですよ。たとえばレッスン中、先生は、「今日は母の日よ。お花の一輪でも買って帰ってあげて」とおっしゃるんです。すごいことだと思いませんか? 音楽の世界にとどまらず、感謝の気持ちも、それが母親に対してでも、「表現しなさい」「きちんと相手に伝えなさい」と先生は言われていたんです。
樋口先生は、厳しくて、怖くて、恐れ多くて、とにかく偉大な先生であると同時に、とてつもなく優しかった。僕もいまは親になり、自分のスクールで表現を教える側に立っていますから、よけいに先生の大きさがわかります。本当に素晴らしい先生でした。