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vol.5

今号の研究テーマ

文化や産業の振興にも貢献した鍋島直正

徹底的な質素倹約で、見事に藩を立て直した鍋島直正。藩が倒れない仕組みづくりは財政面のてこ入れだけではなかった。そこが直正の素晴らしいところなのかもしれないのう。経営手腕に優れたリーダー、直正をさらに追っていこう。

 佐賀が誇る産業といえば? そう、焼き物だったりお茶産業、酒づくり、今でも息づく誇るべき産業である。エネルギー産業や教育面にも力を注いだ。藩校弘道館で、数々の賢人たちを輩出し、技術面では、現在の佐賀市長瀬町に日本初の反射炉を作り、佐賀藩の高い技術水準を示し、幕末佐賀の軍事力を充実させていったのじゃ。

 当時、明治政府の中心的存在だった岩倉具視は、直正の卓越した人材育成力に目を付け、なんと自分の2人の息子を佐賀の藩校に留学させた。中央から地方への留学はいたって珍しく、佐賀がいかに教育面でも国内で先進的だったかがうかがえる史実である。業績は素晴らしく、切れ者と呼ぶにふさわしい直正であるが、その人間性は情に厚くやさしい人柄であったといわれているのじゃ。命を重んじ、当時であれば切腹に値するような重罪に対しても謹慎処分を課したり、やむなく死刑が確定した者に対しては、涙を流してその死を悲しんだといわれておるのじゃよ。

 仕事もでき、人財育成もでき、そして人間的にも素晴らしい直正公は明治4年1月18日にこの世を去った。明治に変わり、世の中が動き出したばかりの時にこの世に別れを告げなければいけなかった直正公は、どれほど現世が恋しかったことだろう。なくなる間際に「戦国の世に生まれていればもう少し面白い世を送っていたかもしれぬ」と漏らしたそうじゃ。これがもしそうであったなら、鍋島幕府ができていたかもしれない。幕末から維新を駆けぬいた直正公は佐嘉神社にも奉られている。佐賀が輝いていた頃の素晴らしきリーダー、鍋島直正公の話は、これでおしまいじゃ。

●第10代 鍋島直正(なべしま・なおまさ)
 文化11年(1814)、江戸桜田の佐賀藩邸で誕生した鍋島直正公は、文政13年(1830)に17歳で10代佐賀藩主となりました。その年、初めて佐賀に入部した直正公は、「領民が安堵する時代の、いち早い到来」を願って倹約令を実施するなど早くも改革に取り組みます。それ以降、48歳で隠居するまでの約30年間、財政の立て直しや弘道館教育での人材育成、科学技術革新による軍事力の増強など、佐賀藩の新規事業を積極的に推進し、佐賀藩歴代藩主の中でも稀代の名君として知られています。また直正公は、佐賀城本丸の復興や城下の修復にも心力を注ぎ、川上(佐賀市大和町)の景色を好み、神野に御茶屋(別荘)を造営するなど、佐賀城を中心に城下や郊外に広がるこの佐賀の土地をこよなく愛した殿様でした。

・鍋島直正公銅像再建委員会ホームページより引用
http://www.naomasakou.jp/
・徴古館ホームページを参照ください
http://www.nabeshima.or.jp/main/40.html

ラボ主任研究員

谷口文章

BUNSYO TANIGUCHI

PROFILE

えびすFMの市民パーソナリティとして「えびす街角ラジオ」(毎週土曜午前9時から生放送中)をピンキースカイと一緒に担当。番組のコーナー「佐賀の賢人さん」では、佐賀出身の賢人たちをわかりやすく紹介し人気上昇中!また、佐賀市のまちおこしとして佐賀の八賢人を演劇で紹介する「八賢人おもてなし隊」の島義勇役として活躍。毎週日曜、佐賀城本丸歴史館にて好評上演中!