佐賀ならではの時間や空間の楽しみ方など、通りいっぺんの観光では味わえない濃い深い情報満載です!  PR隊長のはなわさんや優木まおみさんがディープな佐賀へと誘います。

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vol.10

今号の研究テーマ

日本初の法務大臣「司法卿」となった江藤新平

年号が明治に変わり、時代が目まぐるしく変わる中、その先頭に立ち新しい日本の礎を築いた功労者の一人が江藤だった。その生涯は短く終えたが、彼の功績は今に生きているのじゃよ。

「四民平等」の考えを浸透させていった江藤新平


江藤新平(国立国会図書館ウェブサイトより)

 江戸幕府の時代、士農工商という階級を設け、ピラミッド型の社会構造をつくっていた。その制度を根底からくつがえし、「四民平等」という考えを広く浸透させた。当時は「民の権利=民権」という考えはなかったのじゃが、階級制度がすっかり浸透しているあの時代に、一般ピープルの権利を守り、誰でも平等だと説いたのが江藤だったのじゃ。江藤は、後に誰にでも公平な裁判も実現させていくのじゃよ。


江藤はイケメンだったが、ドン引きされることも…。


 江藤は12歳の時に藩校弘道館に入学し、入学と同時にその天才的な頭脳で頭角を表していった。しかし、家が貧しく学費も払えないほどだったので、苦学生だったと思う。苦学しながらも勉学に励んだ江藤は、写真で見るとけっこう私のようなイケメンなんじゃよ(笑)。
 しかし、街の女たちが江藤のみずほらしい服にドン引きしたというエピソードも残っているのじゃよ。そんな女子たちの反応にもッ屈せず、江藤は明治維新後、江戸城内にあった当時の法令に関する文書を天才的頭脳で読み解き、新しい法令制度を作ったのじゃ。

学校制度や警察制度をつくったのも江藤新平だった!

 大木喬任(次回の賢人紹介で登場)がつくった学校制度を法的に定めたのが江藤だった。警察制度の基礎をつくったのも江藤だったというから、どれだけ法律や制度に精通していたかがうかがえるというもの。江藤は、江戸から明治に変わった激変の時代に、普遍的な正義を法令化し、実行しているのだから、当時、江藤の画期的な取り組みに、政府の中心にいた薩摩や長州の連中から嫌われていたそうじゃよ。他の佐賀の賢人さんたちは、そこらへんのところをうまくやっていくのだろうが、江藤はそんなことはおかまいなしだったんじゃな。「真実はいつも1つ!」みたいな人だから。時として「お前空気読めよ!!」というKYキャラとして紹介されているんだね。だからってわけじゃないが、誤解も受けやすかったのかな。
 次は、佐賀の歴史にも色濃く残る「佐賀の乱」について話してみようかのう。


江藤新平
天保5年2月9日〜明治7年4月13日(1834年3月18日〜1874年4月13日)

父は佐賀藩士。藩校弘道館に学ぶ。尊王攘夷運動に加わり、その後開国論を唱える。藩吏となるが、文久2年(1862)脱藩し、皇権回復の密奏を図り失敗、藩から永蟄居を命ぜられる。明治元年(1868)新政府成立後、徴士として出仕、江戸遷都を提唱。文部大輔、左院副議長などを経て5年司法卿となり、司法制度整備や民法制定などに尽力した。6年参議となるが征韓論争に敗れて下野。7年民撰議院設立建白書に署名。同年帰郷後、征韓党の首領となり、佐賀の乱を起こすが敗北し、処刑された。

ラボ主任研究員

谷口文章

BUNSYO TANIGUCHI

PROFILE

えびすFMの市民パーソナリティとして「えびす街角ラジオ」(毎週土曜午前9時から生放送中)をピンキースカイと一緒に担当。番組のコーナー「佐賀の賢人さん」では、佐賀出身の賢人たちをわかりやすく紹介し人気上昇中!また、佐賀市のまちおこしとして佐賀の八賢人を演劇で紹介する「八賢人おもてなし隊」の島義勇役として活躍。毎週日曜、佐賀城本丸歴史館にて好評上演中!