佐賀ならではの時間や空間の楽しみ方など、通りいっぺんの観光では味わえない濃い深い情報満載です!  PR隊長のはなわさんや優木まおみさんがディープな佐賀へと誘います。

SAGA MAGA

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vol.11

今号の研究テーマ

「佐賀の乱」で若き命を落とした江藤新平

頭がよく、日本の新時代に必要な法制度を整えていった江藤新平。今回は、その江藤が若き命を落とすことになった「佐賀の乱」について話してみよう。

キレ者ゆえの悲劇! 「佐賀の乱」

 江藤はあまりにも頭がキレたので、地元のヒーローだったワケで…。
この圧倒的存在感ゆえなのか、1874年、旧佐賀藩士の憤懣をなだめるために東京から佐賀へ向かうも、その佐賀で反政府軍のリーダーとしてまつり上げられた挙句に「反乱軍のリーダー」という汚名を着せられたまま、処刑されて短い生涯を終えてしまうのじゃ。これが皮肉にも、江藤自身が考案した指名手配写真制度のせいで、あっという間に捕まってしまうという事態に。しかも、まともな裁判も受けられずに刑が執行されてしまうという始末。しかし、史実上死刑という憂き目に遭いながらも、江藤が当時、薩摩や長州の政治的圧力に阿ることなく、天才的頭脳と真の正義を貫いた所が、民の高い支持を受けているのじゃ。国もそれを認めたのか、1889年、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令の公布で賊名を解かれることとなる。


江藤新平缶バッチ「八賢人おもてなし隊」

 調べたところによると、佐賀の賢人をバッジにした企画商品の中では、大隈重信に次いで第2位の売り上げを記録しているそうじゃよ。かくいう私も持っておる。


神野公園にいる銅像を訪ねてみよう


江藤新平銅像(佐賀市神野4丁目1-3)

 41歳という若さでこの世を去った江藤に会える場所がある。1846年、佐賀藩十代藩主 鍋島直正公の別邸として造られ、1923年に佐賀市に寄贈された後に「神野公園」として市民に親しまれている園内には、江藤の銅像が建立されておるのじゃよ。今でも、毎年、江藤の命日の翌日にあたる4月14日に、彼の遺徳を偲び「江藤新平卿銅像まつり」が開催されておる。


 江藤が貫いた真の正義が今の日本にも繋がっているのは明白だろう。江藤新平が維新の十傑と称されるのも納得できるじゃろう。次は、江藤の盟友・島義勇について話していくとしよう。




江藤新平の墓(本行寺)

江藤新平の墓は、佐賀市西田代の本行寺境内にあります。日蓮宗身延山派の寺院で、常住山と号します。開山の日政上人に帰依した龍造寺胤家により、永正15年(1518年)城北に建立され、慶長15年(1610年)に現在地に移転したと伝えられています。与賀龍造寺家の菩提寺であり、境内には胤家の墓があります。

ラボ主任研究員

谷口文章

BUNSYO TANIGUCHI

PROFILE

えびすFMの市民パーソナリティとして「えびす街角ラジオ」(毎週土曜午前9時から生放送中)をピンキースカイと一緒に担当。番組のコーナー「佐賀の賢人さん」では、佐賀出身の賢人たちをわかりやすく紹介し人気上昇中!また、佐賀市のまちおこしとして佐賀の八賢人を演劇で紹介する「八賢人おもてなし隊」の島義勇役として活躍。毎週日曜、佐賀城本丸歴史館にて好評上演中!