佐賀ならではの時間や空間の楽しみ方など、通りいっぺんの観光では味わえない濃い深い情報満載です!  PR隊長のはなわさんや優木まおみさんがディープな佐賀へと誘います。

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vol.13

今号の研究テーマ

秋田県知事時代も熱く生きた島義勇

初代秋田県知事は誰? 答えはなんと「島義勇」。人生の折り返しを過ぎても、島はなおも熱かった。秋田県知事時代から佐賀の役で命を落とすまでを追ってみよう。

秋田でも大活躍。八郎潟の干拓事業に着目する

 1872年(明治5年)、秋田県知事に就任した島は、北海道・札幌の街づくりの基礎をつくった手腕を秋田にも発揮した。島は、日本で初めて秋田の八郎潟干拓を唱え、政府と交渉をもとうとする。しかし、当時の明治政府は、これを無視して、予算のことで政府相手に大論争してしまう。結果、知事をたったの4ヶ月で解任させれてしまった。


 しかし、八郎潟の干拓は、昭和23年に実際に行われた。島さんが干拓の必要性を解いてから75年。こんなにも早くから八郎潟の干拓の重要性を見抜くとは、驚くばかりである。己の考えが正しく、かつ大切であると思えば、明治政府にも噛みつく覚悟で意見を述べる、そんな島さんはやはり、熱い、熱い!!


佐賀の役で不運の死を遂げる


 島さんは、佐賀の役では反政府軍のリーダーとしてまつり上げられてしまい、溢れる才能と情熱を持ちながら、53歳でその命を散らしてしまう。しかし、その一本気な面は、多くの人から愛されたのじゃ。島さんの本名、島団右之門義勇から佐賀では「だんにょんさん」という愛称で親しまれたそうじゃ。



 赴任していた北海道では、開拓判官だったことから「判官さま」と慕われ、そのご当地では「判官さま」というお菓子まで作られているのじゃよ。札幌市役所のロビーには、島さんの銅像も建っており、北海道ではその名を知らない人はいないほど有名で、現在も人気のある賢人といえる。地元の佐賀市内でも、万部島というところに慰霊碑が建てられているので、見に行ってみよう。


 今回は、ワタクシぶんちゃんこと谷口文章が、佐賀城本丸歴史館で毎週日曜に演じている島義勇にスポットを充ててみたのじゃが、これからも、島さんのことを思いながら熱く、熱く演じていくので、賢人に興味がある方はぜひ、観劇してみてほしい。



<参考>秋田県の歴史にみる島義勇

 明治4年7月、廃藩を命じる詔書が諸藩知事に対して発せられ、いわゆる廃藩置県が行われました。これにより東京・大阪・京都の3府と302県が成立しました。また知藩事(旧藩主)は罷免され、華族の身分と家禄を保証されて東京へ移住となりました。現在の秋田県域には、秋田・岩崎・亀田・本荘・矢島の5県が成立しました。
 明治4年11月には、秋田・岩崎・亀田・本荘・矢島の5県に鹿角郡・旧仁賀保領を合わせた県域が定まり、ここに現在につながる秋田県が成立しました。同年には初代権令(知事)として島義勇が就任し、翌5年3月に開庁式を行っています。
(「秋田県の成立と市町村の移り変わり」より引用)


干拓前の八郎潟(大潟村干拓博物館蔵)

干拓前の八郎潟は面積がおよそ22,000ha、当時日本で琵琶湖に次いで二番目に大きな湖であり、「琴の湖」とも呼ばれていました。(中略)


非常に浅い湖であったことから、湖底を水田にするなど、八郎潟を開発したいという願望は古くからあったと思われます。明治4年に権令(ごんれい、後の官選知事)となった島義勇(しま よしたけ)は翌年に八郎潟開発計画を発表しましたが、実現に至りませんでした。
(「大潟村百科事典」より引用)

ラボ主任研究員

谷口文章

BUNSYO TANIGUCHI

PROFILE

えびすFMの市民パーソナリティとして「えびす街角ラジオ」(毎週土曜午前9時から生放送中)をピンキースカイと一緒に担当。番組のコーナー「佐賀の賢人さん」では、佐賀出身の賢人たちをわかりやすく紹介し人気上昇中!また、佐賀市のまちおこしとして佐賀の八賢人を演劇で紹介する「八賢人おもてなし隊」の島義勇役として活躍。毎週日曜、佐賀城本丸歴史館にて好評上演中!