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vol.14

今号の研究テーマ

日本の初代文部科学大臣(文部卿)、大木喬任

「教育」の分野に力を入れ、日本の教育制度の基盤を築いたのは、佐賀の賢人、大木喬任だった。今回のラボは、大木喬任について話してみようかのう。

弘道館記念碑(徴古館横:佐賀市松原2-5-22)

 大木喬任(おおきたかとう)は、15歳で佐賀藩の学校「弘道館」に入学した。大変な読書好きだったそうで、あまりに活字が好きで、読書で徹夜することもあったというエピソードが残されておるのじゃよ。時代的には、江藤新平、大隈重信、副島種臣らと親交があり、枝吉神陽が結成した「義祭同盟」の志士活動にも参加しているのじゃよ。彼の優秀な面が評価され、28歳の時には弘道館に選ばれて江戸で遊学に出ることとなる。

 明治元年、36歳の時、江藤新平と共に、政府に「東京遷都論」を意見具申し、第2代東京府知事に就任(明治元年12月4日~明治2年7月15日)するのじゃ。ス、スゴイ! その後、39歳で初代文部卿(現在の文部科学大臣)になり、41歳の時には、司法卿(現在の法務大臣)まで任ぜられたのじゃ。大活躍この上ない人が大木さんだったのじゃよ。


物静かで内面燃ゆる熱き男 大木喬任


国立国会図書館「近代名士写真」より

 大木さんは、基本的に無口で、悪いことも派手なこともしなかったため、今一つ注目度が低いのが残念といえば残念なのじゃが、地味キャラの大木にまつわる話で、意外な面を見ることができる。ものすごく頭がよかった大木は、実はケンカが強かったrしく、弘道館の仲間の中では、「大木を怒らせると一番怖い」と噂されていたそうじゃ。ケンカの現場を見た大隈重信が「血だらけのケンカをしているのを見たが、すさまじかった」と語っていたそうじゃ。まさに、静かなる武闘派じゃな。

 彼は、大の酒好きでもあった。67歳で亡くなったのは、酒のせいではないかともいわれている。酒のエピソードがある。大木がほろ酔いで東京を首都にする案を岩倉具視に相談しに行ったところ、「それは木戸孝允に相談しろ」と追い返された。翌朝、話を聞いた木戸が大木を訪ねると、やけ酒を飲んでふて寝をしていたという酒話が微笑ましいのう。


大木公園内ある大木喬任記念碑

大木喬任生誕地にある掲示板

 大木の生誕地は、龍谷高校の少し南側(佐賀市水ケ江3丁目)にあり、現在は生家跡に記念碑が建ち、大木公園と名前が付けられている。彼の業績の偉大さを感じ取ることができる場所の一つでもあるので、訪ねてみてはいかがじゃろう。

 次回は、様々な佐賀の賢人たちに多大なる影響を与えた枝吉神陽について話をしてみよう。


大木喬任(おおき たかとう 1832〜1899)
 父は佐賀藩士。藩校弘道館に学び、勤王派として藩政改革を推進。新政府に出仕し、徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などをつとめる。東京奠都にも尽力。明治4年(1871)文部卿となり、学制を制定。6年参議兼司法卿。萩の乱、神風連の乱で、反乱士族の処分にあたる。13年元老院議長。また民法編纂総裁として法典編纂に関わる。17年伯爵。21年から枢密顧問官を兼任し、翌年枢密院議長となる。第1次山県内閣の司法相、第1次松方内閣の文相を歴任。(国立国会図書館より引用)

ラボ主任研究員

谷口文章

BUNSYO TANIGUCHI

PROFILE

えびすFMの市民パーソナリティとして「えびす街角ラジオ」(毎週土曜午前9時から生放送中)をピンキースカイと一緒に担当。番組のコーナー「佐賀の賢人さん」では、佐賀出身の賢人たちをわかりやすく紹介し人気上昇中!また、佐賀市のまちおこしとして佐賀の八賢人を演劇で紹介する「八賢人おもてなし隊」の島義勇役として活躍。毎週日曜、佐賀城本丸歴史館にて好評上演中!