佐賀ならではの時間や空間の楽しみ方など、通りいっぺんの観光では味わえない濃い深い情報満載です!  PR隊長のはなわさんや優木まおみさんがディープな佐賀へと誘います。

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vol.12

今号の研究テーマ

佐賀を離れ、北の地で開拓に力を注いだ功労者、島義勇(よしたけ)

「北海道開拓の父といえば?」と札幌の人に聞くと、誰もが「島義勇」と答えられるほど北海道では有名な島義勇。我が佐賀藩の賢人じゃよ。現在の札幌市の基礎をつくり、最期は、佐賀の乱で命を落とすことになるが、その生涯を追ってみるとしよう。

厳寒の地で燃やした熱き心

 江戸時代末期、当時はまだ開拓の手が伸びていなかった現在の北海道を探検し、めちゃくちゃ厳しい寒さの中、約2年間にわたって歩き続けて調査し、今の札幌の街の基礎を築いた人。それが、この島義勇さん、生き方が超激アツなんじゃよ。その熱さたるや、バーベキューの炭火のこと熱かとよ!! 北海道の開拓リーダー、開拓使判官に就任した時、寒風吹きすさぶ中、1日に70㎞も歩き続け、人々の生活やその土地の気候、自然を詳細に記した。現在の函館から松前、札幌、宗谷、樺太(現ロシア領)、根室、室蘭と2年間をかけて歩き、寒い夜は犬を抱きしめて暖をとったそうじゃ。彼が残した「入北記」には、細かい字でびっしりと得た情報を書き記している。普通だったら歩くだけでも限界だろうに、本当に熱い人なんじゃ。


札幌の礎をつくった男。マンガ「島義勇伝」

碁盤の目のようなデザインで、理想の街づくり

 その後、島は、札幌の街づくりに手をつけていったのじゃが、佐賀と比べたら雪も多く、とにかく寒い寒い! 朝から降り続く雪に加えて、作業は手作業が中心ときたもんだから、工事が一向に進まないわけじゃよ。1年間の予算を3か月で使ってしまい、役を解かれてしまうのじゃが、最後まで政府との予算交渉を諦めない熱さを見せた。現在の札幌の街は、碁盤の目のように整然とつくられている。これは、島が京都の町を参考にして整備していったのじゃよ。遠き札幌の街づくりに佐賀出身の賢人が関わっていることに誇らしさを覚えるのう。


現在の札幌市

明治天皇の侍従となっても熱かった!!

 北海道を後にしてからは、明治天皇の侍従となって、天皇の身の回りの世話などをすることになる。当時はまだ幼かった明治天皇の御身を心配する余りに、明治天皇を守るために、自身が建物に激突して血だらけになっても気づかなったという熱いエピソードも残っているのじゃよ。

熱い男は、行く先々で理想を貫く人生を歩んでいく。次は、秋田県知事に就任したことから話していこうかのう。


島義勇(1822~1874)
島義勇は、1822年、佐賀藩士島市郎右衛門の長男として、佐賀城下精(しらげ)小路(佐賀市与賀町)で生まれた。


9歳で弘道館に入学し、その後、義祭同盟に参加、水戸学派の藤田東湖と親交を結んだ。藩主鍋島直正の外小姓となり、1856年に直正の命により1年半ほど蝦夷・樺太を探検し、1869年に直正が初代北海道開拓使長官となると、首席判官に任命された。


島義勇の墓(佐賀市金立町)

北海道の開拓を行い、札幌市街地建設に力を注ぎ、今の札幌の基礎を築いた。札幌大通公園は、その当時の都市計画の姿がそのまま残っている。また、札幌市役所のロビーにはその銅像がある。その後、侍従や秋田県令を務めた。1874年に帰郷し、憂国党の首領におされ、征韓党の江藤新平とともに佐賀戦争で敗れた。53歳で没。


著:エアーダイブ 「島義勇伝」製作委員会

札幌市役所のロビーに島義勇の像

ラボ主任研究員

谷口文章

BUNSYO TANIGUCHI

PROFILE

えびすFMの市民パーソナリティとして「えびす街角ラジオ」(毎週土曜午前9時から生放送中)をピンキースカイと一緒に担当。番組のコーナー「佐賀の賢人さん」では、佐賀出身の賢人たちをわかりやすく紹介し人気上昇中!また、佐賀市のまちおこしとして佐賀の八賢人を演劇で紹介する「八賢人おもてなし隊」の島義勇役として活躍。毎週日曜、佐賀城本丸歴史館にて好評上演中!